川勝 良昭
新潟県参与
早稲田大学第一法学部卒。新日本製鉄葛Z術協力営業部長,
米国新日鉄褐o理担当役員&ニューヨーク州立大学非常勤講師兼務、
(株)セカ・テーマパーク事業部長、岐阜県理事を経て、2005年より現職。
法政大学情報技術(IT)センター元教授、
亜細亜大学&大学院及び岐阜聖徳大学の客員教授、
東京大学工学部の特別講義(夢工学ゼミ)講師、
中華人民共和国・教育部・文教専家、中国政法大学(北京)客座教授。
(株)NTTデータ経営研究所・元顧問、千代田商事(株)顧問、
東工業(株)顧問、日本プロジェクト・マネジメント・フォーラム理事、
総合観光学会理事などを兼務。
先月号 | 次号 | 川勝良昭 : 10月号 |
[プロフィール] | ||
夢工学(36) |
5 ジャズ演奏のインタープレー
●筆者の音楽の「夢」
筆者の個人的な音楽活動を以下に紹介したのは理由がある。それは、ジャズ演奏活動が悪夢工学や夢工学の構築に大変役立ったことである。余談も含めて気楽にお読み頂きたい。
筆者は、子供の頃から音楽が大好きであった。小学生の頃はハーモニカを吹き、高校生と大学生の時代はギターを弾いた。社会人になってからは、ジャズ・スイング・バンドでフルートとサキソフォンを吹き、遊びでピアノを弾いていた。そしていつの日かプロ演奏家としてジャズ・ライブ・ハウスで出演する「夢」を持っていた。
筆者は、ある日の夜、遊びに寄ったJR水道橋駅の直ぐ近くの「東京倶楽部」というジャズ・ライブハウスでピアノを弾いた。その演奏を聴いたお店の経営者は、たまたまピアニストを探していたため、その場で筆者をスカウトした。そしてジャズ・トリオ+歌手の編成で出演する「夢」が幸運にも、突然にも実現した。バンドの一人が「ザ・キングス・トリオ+ワン」という物凄い名前を付けた。
●都内のジャズ・ライブハウスでの出演
東京倶楽部で「ザ・キングス・トリオ」は最長出演バンドの一つである。筆者は、ピアニストとしてスカウトされて早くも13年たった。現在も同店で毎月第3土曜日に出演し、「生オケ演奏」をするのが特徴である。これは客の希望する歌の伴奏をすることをいう。筆者は、都内の幾つかのジャズ・ライブ・ハウスで職務に支障のない範囲でプロとして演奏活動を続けている。
余談であるが、筆者は、同店でスカウトされた時、潟Zガ・エンタープライゼスに勤務していた。第1号の「ジョイポリス」の開発に取り組んでいた時期であった。直属上司の中山 隼社長はその出演を快諾してくれた。その後、筆者は、岐阜県梶原 拓知事からスカウトされて地方公務員試験を経て岐阜県理事に就任した。その時も梶原知事から出演の了解を得ることが出来た。また本年8月、新潟県泉田裕彦知事からスカウトされ新潟県参与に就任した。この時も泉田知事から出演の了解を得た。筆者の三人の直属上司はいずれも音楽活動に理解があったからだ。嬉しい限りである。
●ジャズ演奏に於けるインタープレイ
インタープレイーとは、日本語の直訳では「演奏者間演奏」である。それは演奏家間で相互に音楽的に刺激し合い、演奏上の意志疎通を行うことをいう。演奏者間の双方向のコミュニケーションと言い換えてもよい。
インタープレーの巧拙は、個々の演奏者の演奏の巧拙を超える効果を持っている。またそれは演奏の価値を決定付け、聴衆へのアッピール度合を左右する効果を持つ。言い換えれば個々の演奏者の技量に少々問題があっても、インタープレーが巧ければ素晴らしい演奏結果を生み出すということである。しかしその逆はあり得ない。インタープレーの重要性と有効性を証明する事例は数多く存在する。
某有名ジャズ・ピアニストは、プロ仲間から極めて評判が悪い。「どうぞご勝手にピアノをお弾き下さい。お金になるからあなたのピアノに付き合っているだけ」と陰口を叩かれている。同ピアニストは、べースマンとドラマーとのインタープレーを軽視している。というかはっきり言って彼らを自分の演奏の「刺し身のツマ」の様に扱っている。かれらを同等の立場で考え、互いに見つめ合い、刺激し合い、理性と感性のコミュニケーションを行い、ジャズを創造するという考えは、同ピアニストに全くなかった。嫌われ、陰口を叩かれて当然であろう。
6 日本の音楽界
●最低、最悪の演奏家
実に驚くべきことに、日本にはインタープレーの本質を理解しないジャズ演奏家が結構多い。また聴衆も同様である。これはジャズ音楽の世界だけの現象ではない。しかも最低、最悪の演奏家が日本で有名人になり、音楽業界を支配している場合が多い。何故だろうか。
その答えは極めて簡単である。日本の音楽聴衆が真の演奏家を見付け、育てていないからである。日本の多くの聴衆は、○○国立音楽大学卒業、△△国際コンサート優勝などの肩書きで演奏家を評価する。外国有名演奏家を盲目的、無批判的に賞賛し、彼らの日本公演に法外なカネを支払って聴きにゆく。以上の傾向は、ジャズ音楽でも、クラシック音楽でも、ロック音楽でも同じである。
●感動を与える演奏
日本の演奏者の中に、テクニックは世界的レベルだろうが、シラケた演奏姿勢で演奏する輩が多い。これでは聴衆に感動を与えることは出来ない。特にクラシック音楽の世界でこの現象が多い。そんな演奏に日本人のクラシック音楽の聴衆は、上記の通り、暖かい心(?)で何度も何度も拍手を贈る。或いは高いチケット料を少しでも回収するためアンコールを強要しているのだろうか。
ある楽章で感動を与えた演奏があっても日本のクラシック音楽の聴衆は、その楽章の終わりに拍手をしない。咳払いだけして、黙って次ぎの楽章が始まるのを待つ。これが礼儀だと勘違いしている。もし聴衆がその時の感動を拍手で表せば、たとえ次の楽章への導入に問題が生じても、指揮者と団員達はどれほど強く勇気付けられるだろうか。もし会場が感動の渦で次ぎの楽章に進めなくなったとしてもよいではないか。そうなった時の指揮者と団員の喜びは計り知れない。これこそが演奏者と聴衆のインタープレーである。
日本のクラシック・コンサートに於いては、いつも最後の楽章が演奏し終わってから拍手する。これではまるでコンテスト会場の審査員の評価発表である。演奏会は断じてコンテストではない。ジャズやポップスの観衆の様に、海外の聴衆の様に、日本のクラシクの聴衆は、もっと演奏に素直に反応すべきである。
●アマチャー演奏家への支援
アマチャー演奏家とは、本来の職業を持ちながら演奏活動する演奏家ある。しかし出演料を貰ったならば「アマチャー演奏家」と言い開きや弁解をしてはならない。プロ演奏家と自覚せねばならない。
さて通常言われるアマチャー演奏家で構成された「岐阜県交響楽団」は、2003年12月、東京のサントリーホールで初の東京公演を行った。その後、東京公演がないのは残念であるが。
この楽団の指揮者はプロであったが、団員全員はアマチャーであった。かれらは全身全霊を注ぎ込んだ情熱的な演奏を行った。そして聴衆の心を掴んだ。楽章と楽章の合間にかかわらず筆者は拍手した。勿論、殆どの聴衆も拍手した。演奏再開まで少し時間がかかった。しかし指揮者も楽団もますます演奏に乗った。極めて珍しい現象が起こったのである。というよりそれだけ演奏の巧拙を越える感動の演奏であったからである。
団員の演奏は荒削りなところもあったが、それを超えて指揮者と団員相互が目を輝かせ、汗一杯かきながら、力の限り、思いの限りをぶっつけて演奏された。インタープレーの重要性と有効性が証明された演奏であった。はっきり言って白けた団員の演奏が散見される日本の幾つかの超有名交響楽団などを遙かに凌駕する情熱と迫力が岐阜交響楽団にあった。
●育てよう、本物の音楽家を
これまた余談であるが、筆者は、プロの音楽演奏家やクラシック音楽愛好家の人達に是非言いたいことがある。それは、本来の忙しい職業の合間をぬって日夜遅くまで音楽の練習に励み、真摯に努力しているアマチャー音楽演奏家を音楽的に低く評価したり、馬鹿にしないで欲しいということである。彼らを励まし、支援して欲しい。
一方有名なプロ演奏家の名前に惑わされず、かれらをありのままに評価し、感動を与えない駄目な演奏には厳しい評価を与えて欲しい。この姿勢こそが日本の音楽界の若手を育て、音楽家が音楽のみで生活してゆける様にする原動力になる。
以上の説明でインタープレーという音楽コミュニケーションは、指揮者、歌手、演奏家と聴衆との間に存在することが分かったであろう。お義理の拍手、無意味な拍手などは指揮者や演奏家に不要である。「今夜の演奏は最低だった」と思っているクラシック音楽の外国人指揮者や演奏家達は、何回も何回も拍手すると「今夜の聴衆は音楽を全く分っていない」と馬鹿にするのが関の山である。もし聴衆が本物の演奏を聞き分ければこの様な現象は起こらない。そして日本の演奏の質は劇的に向上するであろう。また最低、最悪の演奏家が学歴やコンテスト歴で有名になる様なことも絶対に起こらない。
(つづく)