図書紹介
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「IT立国とわがPM記」
(中井直男著、(株)エッチアンドアイ発行、2007年04月19日、初版1刷、175ページ、1,500円+税)

金子 雄二 ((有)フローラワールド):1月号

この本は、日本の初期コンピュータ発展史を自分の体験から纏められたものである。それもコンピュータメーカーサイドでのシステム開発の輝かしい活躍を書かれている。だからこの本を読むと、1960年代以降のシステム開発がどんな状態であったが、良く理解できる。言わばシステム開発黎明期のメーカーとユーザー(顧客)の姿を知ることが出来る。筆者もそれから5,6年遅れてユーザーの立場で同じような道を辿った。しかし著者の中井氏のような華々しい実績があった訳ではない。コンピュータユーザーの一人として時代を共有し、現在もこうしてプロジェクトマネジメント(PM)に関係した仕事をしている身として親近感をもって書いている。この本では触れていないが、コンピュータがアメリカで最初に作られたのが1940年代後半である。IBMが商業用のプログラム内蔵コンピュータ(IBM701)を発売したのが1952年である。その時期、日本でも実験レベルで通産省が最初にコンピュータを作った。今から半世紀前のことである。コンピュータがオンラインシステムとして基幹産業に導入され、その後漢字システム、パーソナルコンピュータと言われるパソコンが職場に入ってきた。インターネットが普及し家庭でのパソコンが一般化したのは、1990年代である。その前にワープロ(ワードプロセッサーという文書作成専用コンピュータ)や電卓(卓上計算器)で仕事をした方々も多いと思う。それ以前の話が今回の主題である。

現在コンピュータといえば一般的にパソコンであるが、IT産業に働く人は、汎用コンピュータである。それを内部で動かしているのが、プログラムである。そのプログラムは、人間が書くのでプログラム言語と言われ、COBOLやCがある。現代のWeb開発では、JavaやHTMLが主流である。これらのプログラム言語をコンピュータが動作する状態(機械言語)に変換するのがコンパイラーである。著者は、入社当初このコンパイラーを自力で作成したことを書いている。これが如何に大変で難しいことであるかは、コンピュータに携わった人なら良く分かる。言うなれば、言語辞書と機械動作を連動させる基本を作ったことになる。こうした輝かしい経歴から著者の会社人生はスタートした。一方、会社(日本IBM)は、世界の汎用コンピュータの大半のシェアーを独占している。パソコンのマイクロソフトは、数量で世界を制覇しているが、IBMは基幹産業のコンピュータシステムを押えている。日本のコンピュータメーカも健闘しているが、世界的規模となるとその差は、歴然としている。世界の汎用コンピュータの歴史は、IBMの動きに大きく左右されている。

世界最初の汎用コンピュータ     ―― IBMシステム360の登場 ――
著者は、1958年(昭和33年)に大学を卒業して現在の日本IBMに入社した。当時は、日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズと言っていた。これが現在の名称になったのが、翌年である。著者の入社時、社員は300名足らずの中小企業で、本社は麹町にあったとある。IBMの昔と言っても30年くらい前までは、同社受付や管理職の机の上に「THINK」と書かれたプレートが立て掛けられていた。多分、世界中のIBMでも同じ状況であったと思われる。著者が入社試験で、「THINKから何を想像するか」と聞かれ、「コンピュータが発達すれば、人間は生活上の些細なことを考えなくてもよくなる」と答えた話が紹介されている。この話には背景があって、コンピュータ=人工頭脳をイメージしたと釈明している。しかし、入社面接試験での回答としてはユニークである。試験官に大笑いされたというのも頷ける。無事、試験に合格して著者の輝かしい社会人生活がスタートしたが、早期退職までの30年間を振り返って巻末にその感想を述べている。コンピュータの発達のおかげで、医学や工学が進歩した。その結果、人間はつまらないことに頭を使わず、生き生き人間らしく生きられるようになった。だから入社面接で答えたことは、当たらずとも遠からずだという。現在の日本IBMは、売上額1兆2千億円、関連会社を含めると数万人規模の超優良会社である。因みに、全世界のIBMを統括するIBMコーポレーション(本社、ニューヨーク)は、170ヶ国(基礎研究所8ヶ所、製造施設24ヶ所)、社員は329千人、売上914億ドル、売上利益率42%、純利益率10%とホームページにあった。

IBMは、1964年に画期的なコンピュータであるS360を発表した。このSとはシステムを意味し、360は円形を表し「全ての応用範囲に応えるもの」と宣伝された。この年は、日本で初めてオリンピックが開催され、戦後の復興日本を世界にアピールした。以来、高度経済成長を遂げるのであるが、そのオリンピックの集計システムをIBMがオンラインで即時処理をした。これをベースに銀行の預金システムをオンライン・リアルタイムで処理するようになった。俗に言う、「銀行の一次オン」(市中銀行の第一次オンライン・バンキング・システム)がスタートしたのは、1965年である。このS360のハードウェアが発売されてから、それを支えるヒューマンウェアであるシステム・エンジニアー(SE)の活躍が注目されるようになった。著者は、その統括責任者としてSEの育成・技術の向上に尽力された。現在の能力成熟度モデル (CMM:Capability Maturity Model)に当たる、社内SEの評価・育成基準も作られている。それも5段階のランク付けである。新人がSEトレィニ−、2年目でSEアシスタント、更に2,3年後にSEとなり、上位2クラスは管理者となっている。現在のIBM社のランク付け及び評価体系はどうなっているのか、大変興味ある。このSEの評価体系も難しい問題がある。SEが顧客へ提案書の作成に関して、「技術か収益か」の社内評価の悩ましい問題を『システム検定マネジャー』という制度を作り対処したと書いている。これはIBM社内の共通認識がある会社だから出来る制度である。社内にいいSEを評価する文化が定着していないと、いい人は育たない。著者はそれを自ら率先して実行された。

ソフトウェア開発とPM   ―― オンライン・リアルタイム・システム ――
IBMがS360という画期的なコンピュータを発表以来、S370から現在のSystemzに至るまでハードウェアの第1線にいる。その中で、著者が書いている「アンバンドリング」というメーカーとして商売上の革命的なことをIBMは独自にやった。1971年(昭和46年)に、従来コンピュータのハードウェア価格に含まれていた、SEサービス、教育サービス、プログラムプロダクトをそれぞれ別価格で提供すると発表した。現在では、これらサービスが別価格であることに何の違和感もないが、当時は大変な反響であった。ソフトウェアはハードウェアの付属物、SEも教育も当然含まれている感覚があった。一般的にサービスと名の付くものは、ただで提供されるという常識みたいな風習があったと記憶する。筆者も当時ユーザーSEとして、独占メーカーの横暴ではないかとさえ思った。今にして思えば、欧米ではサービスが有料であることは常識であったが、当時の日本人にはその感覚が乏しかった。この制度が落ち着くまで、何年掛かったかは正確な記憶がない。しかしこれを契機にソフトウェアハウス(現在のITベンダー)が雨後の筍のように出現したと著者はいう。

その後著者は、実際の大規模プロジェクトの責任者を幾つも経験されている。その一つがJPS(Japan Publishing System)プロジェクトという、日本新聞発行システムである。朝日新聞と日本経済新聞の両方のシステムを同時平行的に開発するという巨大なプロジェクトである。IBMは、当時アポロ計画のコンピュータシステムを担当した実績から、そのFSD( Federal Sysytm Division)グループが主体となって開発する計画であった。しかし、日本の新聞社とのコミュニケーションの問題、漢字をコンピュータ処理する未経験の問題等々。著者がこのシステム開発を引く受けた時は、既に1年以上も経過していたが、開発が殆んど進んでいないデッドロック状態であった。そこで著者がPMとして担当する上での条件を会社上層部に提示した。第一は「いつでも会社トップのサポートが得られる」。第二は「PMの傘下に営業部隊を入れる」であった。このことは非常に重要なポイントで、現場を統括する責任者イコール会社の責任者であることを、会社トップに認識させたことにある。何処かの経営者みたいに、現場の課長やアルバイトが勝手にやったと責任逃れすることがあってはならない。それこそプロジェクトの最後の最後まで経営と一体となって実行しなければ、顧客や開発メンバーはついてこない。もう一つのPMの配下に営業を付けることであるが、プロジェクト開発がスタートした時点で「技術か営業か」の判断は、技術優先で行かないと船頭が2人いることになり、結果として全体が統括できなくなる。著者は、こうした経験からPMを「People, Personal & Products Manager」と書いている。プロジェクトを成功裡に終わらせるには、パートナーである顧客やプロジェクトメンバーに必要なプレッシャーを掛けこれをコントロールする。そして必要な人材を集めて十分な力を発揮するようアレンジするのもPMの仕事である。これは現在でも通用する普遍のルールかも知れない。問題はPMが会社トップを上手く説得することで、これも実力の一つである。

過去と現在を繋ぐもの    ―― 早期定年退職後のPMとしての歩み ――
先に「銀行の一次オン」のことに触れたが、著者もこの「二次オン」のプロジェクトに関係しPMの責任者(システム開発部長)として携わったとことを書いている。この開発のコンペで、対抗メーカーは100人月(金額にして1億円弱)を無償提供するものだったという。先のアンバンドリングがあるIBMでは、標準契約以外での契約方法(詳細は書いていないが、日本式のきめ細かなものとある)で受注にこぎ付けた。この開発でJCCP(Japan Common Contol Program)と称するOS(Operating System)と応用ソフトの高速処理システムが出来あがった。これが世に言う「第二次オンライン・バンキング・システム」であるという。この銀行のオンラインシステムは、どの銀行もほぼ同じような業務内容なので、多くの銀行がこぞってシステム化した。これが第三次オンライン・バンキング・システムとして広がった。二次オンで経験と実力を付けたIBM社は、国産メーカーと競争しながらも多くの銀行システムをものにしていった。この競争が結果として、コンピュータビジネス業界の基盤を築いたことになる。更に、このオンラインシステムが会社のインフラ構築だけでなく、社会のインフラとして現在のATM(Automated Teller Machine)端末の普及に繋がっている。筆者もその時期、航空業界のシステム開発に携わりIBMはじめ国産メーカーとも共同して航空券予約・発券・搭乗から飛行機の運行管理に関するプロジェクトを手掛けた。その時、一緒に開発したメーカーのエンジニアーや営業の方々と現在でも親交がある。この経験が現在のPMAJでの付き合いとなっているので、チョット私的なことに触れた。

著者は、その後社内ソフトウェア開発センターやOA(当時Office Automationと言われた、事務処理の機械化でワープロやパソコン普及の足掛かりとなった)事業推進本部等々の要職につかれている。このOA事業推進本部では、従来汎用コンピュータ中心で商売していたIBMが、パソコンを売るということで話題となった。この時期、日本のメーカーが優位な状況であったが、巨人IBMの参入でメーカーだけでなく顧客である我々も注目した。そのパソコンは「IBM5550」といわれ、CRTブラウン管、キーボード、CPU本体も含めた全てのユニットを競合メーカーから買うOEM(Original Equipemet Manufacturing)方式で製作した。このパソコンがいずれ汎用コンピュータ端末として、工場から事業所、店舗の売場まで広がっていった。著者はその責任者として、JSP開発で培った漢字処理システムのノウハウが生かされたと書いている。そしてAST総研(IBM・三菱商事・コスモ80の3社の合弁会社)に副社長として出向されている。そこでは当時ニューメディアと称した情報システムの利用を考えた高度情報社会の研究をしている。現在では、当時研究された多くの項目が実現されているので、今読むと時代の急速な流れを感じる。1985年(昭和63年)に定年を前にIBMを退職された。その後、ソフトウェア会社の経営をされ、大学教授(徳島文理大学)もなさり、現在は国際通信事業をされている。コンピュータと共に歩み、プロジェクトを多く経験され著者が、「PMをやりながら自分自身が教育された」と結んでいる。(以上)
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